ショートピース
「平権懇」(平和に生きる権利の確立を目指す懇談会)の学習会で松尾高志さんに出逢ってから10年余り。私は、同じ運営委員として活動をご一緒させていただきました。
「平権懇」が定期的に開催している学習会のあとの居酒屋で、松尾さんは、「ぼくは煙草を吸うから」と、テーブルの隅っこに、長身の背中を屈めるように座られました。
たしか「ショートピース」を好んで吸われていました。フィルター付きの軽いタイプの煙草が全盛の現在、ショートピースは、知る人ぞ知る銘柄でしょう。禁煙が叫ばれ、肩身の狭い喫煙家が、あえて両切り煙草を吸うのは、物好きといわれてしまいそう。煙草をふかす様子は、ちょっと恥ずかしそうにも見えました。
長時間にわたる居酒屋での討議の折、目をつむり沈思黙考といった様子で、皆さんのお話に耳を傾けておられた松尾さんの姿が思い出されます。しかし、いったん口を開くと、腹の底からにじみ出る、心を揺さぶるような深い理論に根ざしたお話は、説得力にあふれる熱いものでした。あやふやな意見については、容赦なく追及されました。
ジャーナリストとして、厳しい姿勢を崩さない一方、人に対するやさしく穏やかなまなざしも見え隠れしていました。数年前、「平権懇」事務局長に任命された私に対しても、いつもあたたかく見守り、支えてくださいました。私は、松尾さんの練り上げられたご報告や研ぎ澄まされた発言に接するたび、目先のことに追われて、ちゃんと勉強をしていないなあ、と反省させられました。
松尾さんの急逝を知ったのは、いつものように、私たちとお酒を酌み交わした数日後です。鎌倉での告別式から一ヶ月ほどした七月二十六日。「平権懇」運営委員の大内要三さん、杉山隆保さん、木下壽國さんとともに、松尾さんの鎌倉のご自宅を訪問しました。
松尾さんが、いつもご家族と過ごされていた居間のテーブルの上には、康子夫人のお手料理が並びました。卵焼やおにぎりなど、松尾さんが大好きなものばかり。高齢のお母様も、明るくお元気なお顔を見せてくださいました。
居間に飾られた笑顔の遺影は、とてもお幸せそうです。議論の場などでは、日本が置かれている厳しい情勢などから、どうしても苦悩するような表情を浮かべておられることが多かった松尾さん。それだけに、このような素晴らしいご家庭に包まれておられたことを知り、私は心からうれしく存じました。
松尾さんの書斎に案内していただきました。つい今しがたまで、そこに座っておられたような、手つかずのままの状態でした。たくさんの蔵書と資料に埋もれるようにして、真夜中、熱心にパソコンに向かう、松尾さんの丸い背中が目に浮かびました。
その日の作業は、書斎から処分する本や雑誌を選び出し、重ねて紐でくくり、それを車まで運んで処分場まで持っていくというもの。私も微力ながらお手伝いをいたしました。
ふと見ると、パソコンの横に映画のDVDが積まれていました。昨年スタートした「へいけんこんブログ」に、松尾さんは、「映画の鑑賞を連載したいと思っている」と漏らされことがあります。私は、松尾さんの映画コラムがとても楽しみでした。けれども、それも拝読することはかなわなくなりました。
ご冥福を心よりお祈り申しあげます。
(「松尾高志追悼文集 ショートピース」より)
追悼・吉村昭先生
「7月31日(月)作家 吉村 昭先生が膵臓がんのため逝去されました。3週間ほど前に吉祥寺の街角で、ご夫妻にばったりお会いしましたが、その時は何時もと変わらず、にこやかにされていました。。。」と、神田雑学大学の三上会長がお言葉を寄せてくださいました。
http://hpmboard3.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=ICG32100
初めて先生にお目にかかったのは、わたくしの単行本デビュー作『日本犬 血統を守るたたかい』(新人物往来社・のちに小学館文庫・以下『日本犬』と省略)が刊行された1997年でした。
もともと先生の著書はほとんど愛読していましたし、本書の参考文献として、『羆撃ち』『羆』を挙げていました。もちろん『日本犬』も贈呈申しあげました。
刊行からしばらくして、先生の近所にお住まいの三上さんのお引き合わせで、先生との邂逅が叶いました。先生がよくお1人で呑みに行かれていた、近くのお寿司屋さんのカウンターでご一緒させていただいたのです。
振り返れば、『日本犬』に、「日本犬を真に愛する人が書いた現場報告が、これだ」と、端的で素晴らしい推薦のお言葉を寄せてくださった中野孝次先生、「吉田悦子さんの魅力」として「熱意のこもった取材と対象への果敢な挑戦、加えて卓越した文章力が吉田悦子さんの大きな武器だ」と、若輩者に、たいへんあたたかな讃辞と激励をくださった山田智彦先生、いずれもわたくしが心より尊敬する作家です。
長年にわたりご指導・ご鞭撻をいただきましたが、残念ながら皆この世を去られました。山田智彦先生は膵臓がん(享年65)、中野孝次先生は食道がん(同81)、そして吉村昭先生も膵臓がん(同79)で。合掌。
追悼・吉行理恵さん
句会のお仲間の窓烏(吉行和子)さんの妹さんで、詩人・作家である吉行理恵さんの訃報を知りました。
ネコ好きとしても知られ、作品にもたくさん登場しています。作家の故エイスケさんと美容師のあぐりさんの二女で、兄は作家の故淳之介さん、姉は女優の和子さんです。
毎月、句会でお目にかかっている和子さん。あぐりさんにも、もう10年以上前ですが、月刊誌のインタビューのため、市ヶ谷駅前のあぐり美容室でお目にかかりました。理恵さんとは面識はありませんでしたが、長年にわたる吉行ファミリーのファンでもある私には、気が重くなるお知らせでした。
心よりご冥福をお祈り申しあげます。
追悼 金子兜太夫人・皆子さん
金子皆子さん(かねこ・みなこ=金子兜太現代俳句協会名誉会長の妻)が、2日に逝去なさったそうです。享年81。埼玉県出身。
もう5年以上前でしょうか。新宿のホテルで行われた俳句の集いで、初めてお目にかかりました。車椅子で出席なさっておりました。
その後、句集『花恋』を刊行され、がんの闘病を詠まれるなど、精力的に作品を発表なさっておられました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
東京展
上野・東京都美術館で開催中の「東京展」を観に行ってきました。
東京展にうかがうようになったのは、会長をつとめておられた故・深尾庄介さんとの出逢いがきっかけでした。
もう15年くらい前、ふと入った御茶ノ水のギャラリーで、偶然、中学時代の美術の先生に再会しました。先生は定年退職後、画家として盛んに個展を開いておられたのです。
ちょうどオープニング・パーティの日で、そこに深尾さんもいらっしゃいました。温厚で、あたたかいな笑顔。吊りバンドがお洒落な、可愛いおじいさまといった感じでした。
その後、短詩の会で再会し、深尾さんはじめ、画家のみなさんとの交流も深まりました。
以来、毎年、ご案内をいただいています。今年も、友人・知人の画家の大作・力作が拝見できて、うれしかったです。
絶滅のかの狼を連れ歩く
俳人・三橋敏雄氏が逝去されてから、三橋氏が健在であったならば、現在の世をどのように詠まれるだろうかと思うことがある。
2002年1月18日。東京・霞ヶ関の日本プレスセンターの「アラスカ」で、前年末亡くなられた三橋氏を偲ぶ会が行われた。
高橋龍氏の開会の辞に続いて、発起人の一人である鈴木六林男氏の挨拶、元「断崖」編集長の木村澄夫氏の献杯。三橋氏の遺影に、集まった俳人一人ひとりによる献花が行われた。
三橋氏は、大正9年東京生まれ。昭和10年14歳で俳句をはじめ、渡辺保夫、渡辺白泉、西東三鬼に師事。昭和13年新興俳句無季派の新人として「戦争」と題する無季57句を発表して山口誓子に激賞される。
弾圧を受けて消えてしまった新興俳句運動の貴重な発言者として、戦後も一貫して「戦争」にこだわり続けた。
昭和41年句集『まぼろしの鱶』で現代俳句協会賞、『畳の上』で蛇笏賞をそれぞれ受賞。
少年ありピカソの青のなかに病む
いつせいに柱が燃える都かな
絶滅のかの狼を連れ歩く
手をあげて此の世の友は来りけり
戦争と畳の上の団扇かな
なかでも「いつせいに」の句は、新興俳句の白眉とされ、三橋氏の代表句である。
三橋氏に初めてお目にかかったのは、たしか、新宿西口の居酒屋「ぼるが」店主で俳人の高島茂氏を偲ぶ会(京王プラザホテル)だった。
その後も、毎日新聞社の「俳句α あるふぁ」創刊十周年の集い(如水会館)でも乾杯の挨拶をされるなど、元気な姿を拝見していただけに、急逝が惜しまれる。
会場には、生前の三橋氏の幅広い交友を思わせるように、茨城和生、磯貝碧蹄館、宇多喜代子、大串章、桂信子、金子兜太、加藤郁乎、倉橋羊村、小島健、津根元潮、中原道夫、橋本美代子、藤田湘子、深見けん二、坊城俊樹、松澤昭、松井和一、和田悟朗、小澤實氏などの俳人のほかにも、詩人の宗左近、高橋睦郎、作家の村上譲、川上弘美氏などの姿もあった。
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