拾う神あり
東京に戻るため、長野新幹線に飛び乗って席に落ち着いたところで、切符を入れた名刺入れを紛失した
あわてて車掌さんに申し出て、出発した駅に連絡を入れ
失くした名刺
ところがっ。本日、拾得物通知ハガキをい
届
東京に戻るため、長野新幹線に飛び乗って席に落ち着いたところで、切符を入れた名刺入れを紛失した
あわてて車掌さんに申し出て、出発した駅に連絡を入れ
失くした名刺
ところがっ。本日、拾得物通知ハガキをい
届
今使っているこのPCは、昨年末、前のPCの電源が突然入らなくなってしまったため、急遽買い換えたものです。
メーカーに電話をして、PCを送って修理の見積もりをしてもらうことにしました。
原因は、ストレス(要は使いすぎ?!)による破損の為、部品を交換する必要があるとのこと。
しかーし!
部品を取り寄せるため、「修理には2週間以上のお時間をいただいております」。出された見積料金は、7万を超えておりました。
結局、修理はしないで、故障したPCを返却してもらうことに。代引きで戻されるのですが、1日でも早く戻してほしいこちらの意図を汲み取る様子もなく、マニュアル通りといいますか、柔軟性がないというか。
そして、ようやく戻ってきたPC(なぜか、先方の指定していた到着日の1日前!)とともに即、アキバに行き、新しいPCを購入。それにデータを移送してもらい、中一日おいて現状復帰、それを使い始めて、現在に至ります。
そこで何がいいたいのか、といいますと、やはりメーカーの対応です。
故障したのは、購入から3年ほどのもので、修理してまだ使えるのならば修理したいと思って、メーカーにお渡ししたのですが、返答は「部品がない」。
どのくらいで入手できるのかうかがったところ、「2週間以上、いや、もっとかかって年を越すかもしれない」。
さらに突っ込むと「時期は未定」ということになり、結局、修理の見通しはまったく立たない。
こちらは仕事で使っているのですから(修理中は第二PCで代用していましたが)、そんなことでは困ります。第一、見通しが立たないなんて。
メーカーの修理部門の体制は、あまりにも手薄ではないでしょうか。
それ以前に、電話の対応自体に、疑問が生じました。ようやくつながったと思ったら、質問するたびに、いちいち「ちょっと確認します」と長いこと待たされます(フリーダイヤルじゃないのですから)。
まっ、それはよしとしても、なんともなおざりな受け答えです。お客様本位という考えが欠落しているというか、こういうメーカーのものだから、満足なアフターケアが受けられないなのか。とほほ。
いずれにしても、残念ながら、メーカー側の姿勢そのものに、疑念を感じました。このようなことは初めてでしたが、今後のことも考えて、担当者には、こちらの率直な思いを述べておきました。が、伝わったでしょうか?
修理をしなかったものの、作業工賃と代引き配送料など17000円余は自己負担となりました。新しい機種代とデータ移送料などは、もちろん別です。
他のメーカーのものに買い換えたことは、いうまでもありません。あれから1ヵ月以上になりますが、自分への戒めも込めて、ここに記すことにいたします。
http://www.sotec.co.jp/index.html
金屏風を背にして司会をつとめさせていただきました、新春座談会の原稿もなんとかクリア。
本日は、友人T氏が講師をつとめられるセミナーへゲスト参加。題して、「ペット産業展望とマーケティング ひとと動物のかかわりをマーケティング活動に生かす」!!
なんと連続5時間にも及ぶ集中セミナー。千代田区平河町のビルに約30人の企業人が出席されるのだそう。
その中で、 わたくしにもお話をということなのですが。。。息抜きに「わん句」のことでも~~
最近やけにオナガの姿を見かけるなぁ、と思っていたら、ありました!
オナガの巣が~~。向かいの茂った木の枝の中に、小枝を集めた籠のような巣を見つけました。
オナガというのは、人家の近くにすむカラス科の中形の鳥。名前のように、尾が長く、頭が帽子をかぶったように黒く、全体に薄い水色をした美しい鳥です。
そして先日、オナガの巣立ちのシーンに立ち会うことができました。5羽のオナガがはばたいて、しばらく我が家の金柑の木の枝にとまっていました。
炎天下、オナガ夫婦がエサを運んで、面倒を見ています。やはり人影があると警戒するのでしょう。ジージーとものすごい勢いで、威嚇するように鳴き続けます。
朝見ると、金柑の枝にも、あたりにも子オナガたちの姿はありませんでした。無事に翔び立っていったようです。
仕事場での撮影のつづきを。
インタヴューのお仕事で必要な仕事道具も紹介したいということで、あわててテープレコーダーや取材ノートやペンなどを用意した。それらを並べて撮るカメラマン氏。
日頃、取材することには馴れているはずなのだが。逆に取材・撮影される側になると、自分の恥部をさらけるようで、恥ずかしさばかりが先にたってしまう。
それはともかく、私の紹介記事は、「好奇心は無限のエネルギー」と題して、カラーの学校案内の見開き2ページにおさまった。
キーボードに向かう横顔の写真はボツになったのか、インタビューに応える私の姿が大きく掲載されていた。
「人間への好奇心をもとに、さまざまな人間像を発掘・追求し、記録する。それが私の基本姿勢といえるかもしれません。歴史の中に埋もれていく、名もなき個人の歴史にも関心があります」
なーんて。今読み返しても、カッコ良すぎる気もする。しかし、初心を忘れない意味を込めて、あえて。
最近、やりたいことがたくさんあり過ぎる。思いばかりが先走って、なかなか目先の一つことに集中しきれない自分自身に気づくことがある。
まだ、なにもやり遂げていないというもどかしさもある。それでも、駆け出しの頃と同じで、好奇心だけはいっぱい。
どんなことからでも吸収することができる、心身の柔軟さみたいなもの。それは失いたくない。まさに、好奇心は無限のエネルギーだから。
(初出・月刊「出版ニュース」編集者の日録)
数年前、出身校の学校案内のパンフレットに、このワタクシが登場させていただくことになった。
「ぜひ、お仕事をしている様子を撮らせていただきたい」という製作担当の方の強いご要望もあり、私の仕事場での撮影となった。
当時は、ワープロとパソコン(現在のノートパソコンではなく、デスクトップのマッキントッシュ)を併用していた。やや緊張気味に、キーボードを意味もなくパチパチしている私。その横顔をカメラマンの方が、時間をかけて撮ってくださった。
いま思い出したけれど、それは初夏の頃だった。1人暮らしをスタートさせて約半年。仕事場のインテリアにも、自分なりに気を配っていた。天井までの大きな窓に、白レースのカーテン。その前には、購入したばかりのグレーの革ソファー。
困ったことに、その頃の私は、ちょうど日光過敏症のような状態にあった。大学病院の皮膚科でも、とうとう原因は判明しないまま、いつの間にか治ってしまったが。新しい生活に、それなりにストレスもあったのであろうか?
ええと、何を述べたいかというと、コンディションがすぐれないこともあり、人前にさらされるのはご遠慮したいといいますか、写真撮影は、極力ご勘弁願いたいという状況だったわけです。
しかし、恩師のご推薦(!)もあり、卒業生代表(なんてたって総代ですもの、 エヘン!って本人も信じられないが)の1人としての、パンフレット掲載だった、と記憶している。
であるから、そう簡単に断れないといいますか、なんとかツトメをまっとうしなくては、ということになった次第。
私のために、貴重な時間を割いて、素晴らしいお話を聴かせていただいた(しかも1対1で!)、一流のお仕事をなさっている人生の先輩に対する感謝の気持ちを伝えるには、どうしたらよいか。
少しでも良い原稿を書くしかない、と私は思った。その気持ちは今でも変わらない。
上司や同僚の顔色をうかがい、人の指示を待って、漠然とデスクに向かっているより、自分が会いたいと思う人に会って、直接お話を聴きたい。現場を訪ねたい。
そこで得たものを原稿につづりたい。そのほうが自分には合っている。そんな気がしていた。
自然と物書きの道に進んでいた。独立して、都内に自分の仕事場を持った。
一方で、20代の頃からさまざまなボランティア活動にも関わるようになった。福祉・医療、地球環境、これも人のためというより、まず好奇心ありきというか、関心を持ったところからはじまった。
「ナースと市民の会」の会報「ナース21」の編集人にもなった。これは、ナースを支援する講演のため、全国を行脚なさっていた徳永清さんの新聞記事を読み、インタヴューを申し入れたことがきっかけだった。
インタヴュー後も、講演先からお心のこもった絵葉書やおみやげをいただくようになった。
その無私の活動とあたたかなお人柄に深い感銘を受けて、「ナースと市民の会」の創立に参加。徳永さんは代表世話人、私は世話人の1人となった。
私はずっと、素晴らしい出会いを求め続けててきたのだな、と今さらながらに思う。
会いたい人に会う。
月刊誌編集部の取材記者1年生の私は、毎日、熱にうかされたように、人に会いに行った。
さまざまな分野の第一人者と呼ばれる人に会った。
好奇心の赴くまま、年齢も性別もさまざまな人に会ってお話を伺った。それは、2時間、半日にも及ぶこともあった。そこで新しいエネルギーを得ると、さらに人に会った。
なにしろタフだった。毎朝、グループ会社で最も早く出社した。徹夜明けでふらふらになっても、早朝の電車に揺られて、1時間かけて通勤した。
まず、お湯を沸かし、先輩たちの机を拭き、ひと息つく間もなく、始業時間の9時まで、せっせっと取材申し込みの手紙を書いた。
電話を入れ、アポをとり、手帳に日時と場所を書き入れ、朝1から取材に駆け回る。スケジュール表は、いつも朝から夜まで、予定でびっしり埋まっていた。毎日、最低でも2人、年間300人を超える方にインタヴューした。
夕方、帰社すると、インタヴューの余韻にひたりながら、すぐお礼の葉書をしたためる。毎日、朝な夕なラブレターを書き続けているようなものだった。社内では手紙魔と呼ばれた。
「お誕生日いつだったの?」というお問い合わせをいただきました。
二月二十六日です(まだ間に合います?)。
二月二十六日というと、たいてい「二・二六ですね」というリアクションがある。十二月といえば忠臣蔵、みたいな。ある世代以上にとっては、二・二六事件(1936)の印象が強烈のようだ。当日は、雪の降る寒い日だったようですね。
ところで、この機会に調べたところ、同じ日に誕生した人には、順不同・敬称略で、桑田佳祐(歌手)、徳川家康(江戸幕府初代将軍)、それから、毛沢東(中国共産党主席)、ヘンリー・ミラー(作家)、菊池寛(作家)、藤沢周平(作家)、与謝野鉄幹(歌人・詩人)、あらら、稲垣足穂(作家)もそうだったとは。
俳優では、中江有里、原田美枝子、橋本功、太宰久雄(寅さんシリーズの「タコ社長」)といった名前が挙がりました。
ひそかに尊敬申し上げる岡本太郎(芸術家)が同じ誕生日というのも、意外だったが、うれしい。余談だが、もう10年以上前、青山のご自宅でインタヴューしたことがある。その時同席なさった岡本敏子さん(現・岡本太郎記念館館長)には、昨年末再会することができた。
実はこの日、プロ野球誕生の日、ジャイアンツの日、ボクシングデー、ふろの日(26ね)でもあるそう。スポーツファン、お風呂好きのみなさまも、ぜひ覚えておかれては。
二月は私の誕生月。
ですが、二月という月は、一般に、存在感が薄いといいますか、あまりぱっとしない、はっきりいってそれほど好意的に受け止められていない気がするわけです。
一月は、新年やお正月で盛り上がる。それに対して二月は、寒いばかりで、あたたかくなったかなと思ってうかうかしていると、ぐーんと冷え込んで風邪をひいてしまったりする。花粉症だって心配、というより憂鬱。
観るべき花も梅くらいしかないじゃないか。そんな二月は一刻も早く去って、あたたかい春になって、お花見にでも行きたい、という感じなのではあるまいかと。
でもね。二月生まれとしては、反論の一つも唱えておきたいわけです。二月だって捨てたものではありませんよ、と。
二月は如月とも呼ばれる。如月。きさらぎは、寒さで更に衣を重ねて着る月であることからきた名であるという。
暦の上では立春を過ぎても、寒さはまだ続く。しかし、日脚は日一日と延びることから、「光の春」という言葉も使われる。二月には、梅見月、雪解月、初花月などの異称もある。
きさらぎ。きらきらした希望や光明を感じる月ではありませぬか?
(だからどーしたのというツッコミは受付ません・笑)
卵割る朝きさらぎの誕生日 吉田悦花
毎月、千葉県市川市の公民館で千葉句会が催されている。平日の午後ということもあり、参加者は10名前後。初心者からベテランまで、なごやかに、かつ熱心に学んでいる。
(仲間は随時募集中です。句会に参加なさりたいという方がおられたら、どうぞお気軽にメールください)。
女子高のうら枯葦の水匂ふ 悦花
紐長きワークシューズよ初明り 悦花
以前、石寒太先生は、NHK「五七五紀行」の番組取材・撮影のため、初めて冬の隠岐を訪ねたときの俳句を千葉句会に出された。
大年の鬣海へなだれゐし 寒太
笹鳴のいつか来てゐし楸邨碑 寒太
目つむれば楸邨のこゑ隠岐の雪 寒太
最高点の「大年」句は、当初、「鬣」(たてがみ)について、人なのか、獣なのか意見が分かれた。先生によると、海に面した断崖に放牧された馬のことだという。
寒風にじっと佇む馬の「鬣」。それが、冬の怒濤になだれを打つように見えた。そのとき、先生は、師・加藤楸邨の「怒濤」を体感されたのであろう。
笹鳴や遠島御百首の詠まれし世 楸邨
隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな 楸邨
私がこの酒場に定期的に顔を出すようになって、もう5年くらいになる。
1999年8月、茂が他界されてまもなく、茂が主宰する俳句誌の同人で、フォトジャーナリストの小松健一氏(茂の遺影の撮影者)から、店で開かれている句会に誘われたのがきっかけである。
2002年2月、「高島茂を偲び、ボルガ50周年を祝う会」が、新宿の京王プラザホテルで催された。そこで私は、今は亡き俳人の三橋敏雄にも会っている。
壇上で挨拶された詩人・作家のねじめ正一氏の父・正也氏も、俳人であった。茂や無頼派俳人といわれた高橋鏡太郎とも親交が深かったという。ちなみに、鏡太郎のことは、石川桂郎の『俳人風狂伝』に詳しい。鏡太郎を最期まで親身に面倒をみたのが茂だった。
私の手元に、茂の俳句誌を継承された高島征夫氏からいただいた、茂の第六句集『ぼるが』(卯辰文庫・平成12年刊)がある。正字・旧かな遣い。質実な気品が漂う句集である。
都会人・茂は、旅を好んだ。厳しく豊かな風土に自己を溶け込ませ、地道に誠実に人間を詠もうとした。晩年は、のびやかな独特の境地を獲得したように思う。
「ボルガ」には、前に述べたように、茂の人柄によって、石田波郷や中村草田夫などの俳人をはじめ、実にさまざまな表現者が出入りした。
私がこの店に吸い寄せられたのも、なにか不思議な縁とも、奇跡のようにさえ思える。
新宿西口の裏道の十字路。手前に、「ぼるが」とひらがな書きされた看板。幻燈のように懐かしい光を放っている。
名物の「ばん焼き」に煙る木の扉を押して、船底のような店内へ。止まり木に男たちの背が並ぶ。
カウンターの正面に、酒場「ボルガ」の創業者で俳人、高島茂のモノクロの遺影が掲げられている。無造作に分けた銀髪。鼻梁の通った凛とした風貌。どこか少年ぽい。ロマンチストの匂いもする。
若い頃の茂は、一見、線の細い美青年だったが、タチの悪い客が来ると、カウンターの中から飛び出し、胸ぐらをつかんで店の外に追い出した。
江戸っ子で、曲ったことが大嫌い。体を張って客や店を守る勇気と気迫に鳥肌が立った、という証言も残っているほど。カウンターに戻ると、にこやかに石田波郷の相手をしていたという。
喧騒、猥雑、無秩序が渦巻く戦後の新宿にあって、酒場「ボルガ」には、独特の雰囲気が漂っていた。半世紀もの間、俳句、詩、小説、映画、写真、演劇、ジャーナリズムなど、さまざまなジャンルの表現と創作活動の拠点・交流の場となってきた。
これはもちろん、茂の人間性に負うところが大きい。一兵卒として中国大陸に渡った後、焼け跡に築いた「ボルガ」は、多くの人々の還るべき憩いの家だった。それを守り抜いた茂は、心やさしい兄であり、厳しい父であった。
昔は10年ひと昔といった。ところが今は、5年、下手をすると2年ひと昔なのである。私が生まれ育った昭和も「遠くになりにけり」だ。
リフォーム全盛の昨今。住まいから段差は急速に失われている。バリアフリーといって、できるだけ障壁や段差をなくした空間が「人にやさしい」とされている。
同時に、日本家屋の特徴である畳や障子も急速に姿を消している。床はフローリングと呼ばれる段差のない板張りとなり、障子は軽くて手入れの簡単なアルミサッシになっている。
よいか悪いかはともかく、合理性や安全性などを追求した1つの方向性といえよう。
そういう時代だからこそ、段差が新鮮。家の中で段差を意識するのは、私の場合、2月3日の節分である。今日、近くの神社でも豆撒きが行なわれ、たくさんの子どもたちで賑わっていた。そこで手に入れた福豆を先ほどいただいたところだ。
子どもの頃、私は、この日を心待ちにしていた。撒いた豆は、音を立てて床に散らばる。そのとき、「あっ、ここに段差がある」と足元の段差を意識する。
段差というものは、なぜか、そこで過ごした時代と、家族の存在を強く意識させる。あの頃にはもう還れない。懐かしく、どこかせつない。しかし、現実に厳然と存在する段差。
いうまでもなく、節分とは、春の節に移る分岐点。まず、段差を強く意識することから始めたい。
豆撒く声いくとせわれら家もたぬ 高島 茂
ボクシンググローブ真つ赤鬼やらひ 吉田悦花
Recent Comments