俳句・エッセイ

2008.03.21

連載コラム「いのちのダイヤリー」更新されました

ペットの「知・遊・人」が贈る「NCぺっと」で連載中のコラムが更新されました。

http://www.ncpet.jp/

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2008.02.02

連載エッセイ「いのちのダイヤリー」更新

「NCぺっと」サイトで連載中のエッセイ「いのちのダイヤリー」、第3回「父と伝書鳩」更新されています♪
http://www.ncpet.jp/

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2006.02.26

2.26の誕生日

2.26事件の日は雪でしたが、今朝の箱根・湯本は雨に濡れていました。東京も、一日冷たい雨だったようですね。

お誕生日をお祝いしてくださったみなさま、ありがとうございます。そして、丈夫な体に産み育ててくれた父母にも、感謝したいと思います。

(カードを送ってくださったロイスさん、タケさん、メールを送ってくださったみかみさん、ひろしさん、kakuちゃん、キハチさん、そして蕎麦旅行でお世話になりましたmaejimaさん、あかまつさん、maronさん、highlandさん、アザミさん、金井さん、おびちゃん。。。ホームページへもたくさんのメッセージをいただき、おかげさまで、とても印象深い誕生日になりました)

「日めくり犬の句」でも、ちょっと触れております。
http://www.publiday.com/publiday/072/077.html

例年、誕生日を境に花粉症の症状が出て、ほうっておくと日に日に悪化してしまいます。ここのところ、なんだか目が疲れやすく、しょぼしょぼしたり、涙目になりやすいなぁと思っていたら、今年も、どうやら花粉が飛散を始めたようです。一応、甜茶を飲んではいますが。

鼻もぐずぐずしてきました。例年に比べて花粉の飛散量は少ない、はずなんですけどねぇ。個人的には、辛い時期の到来でもあります。

卵割る朝きさらぎの誕生日  悦花

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2006.01.10

木彫りフクロウ

創作木彫りフクロウの作者・鎮人さんは、1946年佐賀県生まれ。小学生時代に山中でのランプ生活を体験。4年生の時、疫痢にかかり生死をさまよった。ドウコドリと呼ばれるフクロウの鳴き声に呼び戻されて以来、フクロウに魅了される。

歳を重ねるにつれ、原風景を求めて1999年、妻・千代子さん、柴犬・風とともに岩手に移住。花や野菜を育て、限りなく自給生活に近いスローライフの日々を送る。

1メートルを超える雪に閉ざされる12月~4月は、ほとんど外での仕事ができない。その間、鎮人さんはひたすらフクロウの木彫りに精を出す。

埋もれ木や伐採された丸太をナタで粗削りし、作品を仕上げる創作木彫り。一刀入魂でこつこつ彫り続ける。「枯木が命を吹き返すようで心安らぐ」という。

  ふくろうを彫れば羽ばたく物語 鎮人

  つららは踊り子銀の涙あふれ 千代子

部屋の暖房は、停電になった時のことを考えて薪ストーブ。冬場は、その優しい温もりが、一家のだんらんの中心であり、鎮人さんの木彫り工房にもなる。

フクロウは「不苦労」「福来朗」ともいわれ、森の賢者、幸せを呼ぶ鳥として多くの人々に愛されている。

冬の間に彫りつづけたフクロウもかなりの数になった。似たものはできても、ひとつとして同じものはできない。

ほっとするようなあたたかさを秘めた鎮人さんのフクロウ。自宅ログハウスはじめ、町の施設やミュージアム、駅売店などに作品の一部が展示されている。

「工房ログ」連絡先:岩手県東磐井郡大東町 TEL 0191-74-3582(FAX兼)


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2005.09.13

NHK「ラジオ深夜便」

9/11同時多発テロが起きた4年前の夜
わたくしは 新宿・西口の居酒屋「ボルガ」におりました

ふと気がつけば そこのテレビが 
猛然と煙を上げるビルを映し出しています
「なんだかアメリカがすごいことになっている。。」

なぜか 駅前のラーメン屋台に場所を移動して
そこでもまたテレビを見ていました

さらに旅客機が静かにビルに迫っていく
この国は そして日本は。。。
と全身の力が脱けていくようでした

今朝のNHKラジオ「ラジオ深夜便」で
お友達の藤田三保子さん(女優/俳号・山頭女)が
「吉田悦花さんに誘われて」と
わたくしの名も挙げてくださりながら
俳句のことを語られたそうです

ひとりづつベンチ仕切られ秋の暮  吉田悦花

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2005.09.03

沖縄②

潮騒の聞こえる神社をお参りしたあと、沖縄関係の書籍が揃う書店へ。マチ子さんの詩集『ヒミコ』を購入。

沖縄そばをいただきながら、現地で主宰されている「WA」のことをうかがった。那覇空港で別れるとき、「沖縄の闇は濃いのよ」という言葉が心に残った。

東京に戻り、御礼状に沖縄の句を添えてお送りしたところ、句集『縄文地帯』とエメラルドグリーンの海の絵葉書を戴いた。

 人の世を少しはずれる曼珠沙華  マチ子

 風葬の洞窟びょうびょうと冬霞    マチ子

 断崖を飛ぶ夢ばかり春惜しむ    マチ子

 陽炎にあの世の人ががちゃがちゃと マチ子

群馬県に生まれたマチ子さんが、亜熱帯の島に渡って、もう40年以上。

「もしも沖縄に来なかったらわたしは、文学とは無縁の世界で生きていたかもしれない」という。

 てのひらの珊瑚の白骨冬近し      悦花


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2005.09.02

沖縄

半年ぶりに降り立った沖縄。

大型の台風の直撃を受けた。

街路樹は根こそぎ倒れ、コンクリートの電柱は真っ二つ。

宿舎に缶詰状態となった私たちは、一日中、トランプゲームに興じるしかなかった(笑)。

 苦瓜食む暴風圏のしづかなり  悦花
 海野分琉球硝子壜抱き     悦花

台風一過の最終日、沖縄在住の俳人・岸本マチ子さんが車で迎えに来てくださった。

海岸通りをドライブ。真っ白な砂浜。目が醒めるような碧い海。熱帯魚の泳ぐ遠浅の海。

 砂糖黍に立つ力あり野分晴   悦花
 美辞麗句刻む慰霊碑黍あらし  悦花

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2005.02.02

初めての俳句の作り方④

私が俳句をやっていてよかったなぁと思う1つは、ムダな言葉を削ぎ落とす快感、かもしれないと思うときがある。

不要なものをどんどん削ぎ落としていったら、潔くなれるかしら?

「男はもっとやさしく、女はもっとりりしく」なーんて、使い古された広告コピーみたいだが、男も女も行き着くところは、これではないかと思う。

話は横道にそれるが、私はときどき男性に間違えられる。といっても外見ではなく、私の書く文章が「男らしい」のだそうだ。なにを勘違いされたのか、私のことを男性と思い込んだ女性読者からお手紙をいただいたこともある。

それはともかく、オトナというか、それなりの年齢になって事柄がよく見えてくるようになると、同時に相手の思惑、利害などが複雑にからみ合い、たんに自分の思っていることだけを主張すればよいというわけにもいかなくなる。

当然、我慢強くなる。でもやっぱり、好きな物は好き、嫌いなものは嫌いなのである。

わがままといわれようが、無用の我慢なんて真っ平、こればっかりは譲れないということがある。そういう確たるものを持っている人は、とても魅力的だ。

ともあれ、力まず、素直に、あくまで自然体。俳句でもなんでも、これが長続きの秘訣、かもしれない。


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2005.02.01

初めての俳句の作り方③

俳句を始めたばかりの頃、私が句をつくるのは、仕事の行き帰りなどが多かった。そのせいか、どうしても似たようなパターンの俳句ができてしまう。頭の中のイメージに頼った、人から見れば「感動の薄い」俳句に偏りがちであった。

よく「家の中で歳時記と首っ引きで俳句をつくっている」という声を聞くが、私は歳時記すら満足に目を通すこともなかった。かなり怠慢というか、あくまで自己流、良くいえばマイペース。

今なら、「戸外へ出て句をつくる(つまり吟行する)習慣を身につけると自然と俳句も上達するようですよ。そのほうが、人の動きや自然の変化にじかに接することができるので、驚きや感動にも出会いやすい。仲間と吟行に出かけて、その後で句会をすることは、楽しく効果的な俳句上達法といえるでしょう」

といったことを、エラソーに述べることも可能であるが。当時の私は、俳句を学ぶという意識が薄かった気がする。いたって無頓着であった。吟行のことも理解しないまま、誘われるまま初めての吟行に参加した。

それは手賀沼吟行という、水鳥が集う沼地巡りであった。昼前から夕方までかなりの距離を歩いた。「俳句をなさる方たちって健脚だなぁ」と感心した。

しかし、私はもともとアウトドア志向というか、歩くことは大好きなので、苦にはならなかった。それにしても、みなさん元気で、好奇心旺盛。道端の植物一つひとつに関心を示し、おしゃべりをしながらの楽しい散策であった。

しかし、句会場に到着して、さすがに慌てた。俳句を提出するときになって、朝から一句もつくっていなかったことに気づいたのだった。

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2005.01.31

初めての俳句の作り方②

実は私、初めて出席する本部句会に、いきなり遅刻してしまった。顔も知らない先輩のみなさまが30人くらい勢ぞろいしている会議室に、ひとり入っていった。

句会がどのように行われるものか、どのような方たちが参加なさっているのか、ほとんど理解していないありさまであった。句会では、実質四時間くらい、席に座っていなければならなかった。

いきなり初回に遅刻した私は、すっかり動揺したためか、あたりを見回す余裕すら失っていた。最初から最後までずっと下を向いていた気がする。どのような俳句が出されて、どのような話が交わされていたのか。ほとんど覚えていない。

天気の良い休日の午後、会議室の一室。じっと座っていると、なんだか背中がムズムズしてきた。耳元で「イイワカイモノガ、コンナトコロデ、ジットシテイテ、ヨイノカ」なんて、ささやきが聴こえてくるような気がした。

句会に馴れない頃は、なぜか突然、窓の外に飛び出したくなるような衝動に襲われることもあった。子供の頃、ずっと「落ち着きがない」といわれていた私。正直なところ、少し忍耐が入った。

しかし、何事も参加してみなければ始まらない。新しいドアも一度開いて、中に入ってしまえば、あとは何回か参加しているうちに、順応するというか、リラックスして楽しく参加できるようになるもの。

あまりかたぐるしく考えないほうがよろしいでしょう。これから俳句を始めたい、あるいは句会に参加しようという方には、そのようにアドバイスしたい(笑)。

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2005.01.25

初めての俳句の作り方①

私が俳句に親しむようになったきっかけの1つが、編集部の「おとうさん」との交換日記、ではなく、交換メモであったことは先に述べた。

最近は、カルチャー講座が俳句をはじめるきっかけ、という方が増えている。私の友人にも、カルチャーセンターの俳句講座で俳句をはじめたというケースが少なくない。

例えばMさん。もともと詩吟の講座を希望していたのだが、すでに定員になってしまっていた。なので、まだ申し込みを受け付ていた俳句講座を申し込んだそう。

Sさんも第一希望は、文章講座だったとか。そういえば、Rさんは作詞講座からの転身組だ。

Mさんが入った俳句講座は、大手新聞社が運営するカルチャーセンターの「初心者向け」で、二十代から七十代の男女が、性別・年齢・職業を超え、さまざまな俳句をつくっていた。

そこで大いに刺激を受けたMさん。少しでもおもしろい句をつくりたいと、ああでもない、こうでもないと、常日頃から言葉を吟味するようになったとか。それが、「脳みそをフルに使っている感じがして、とても心地よかった」という。

Kさんは、転勤先の不慣れな土地で閉じこもりがちにならないよう、地元の生涯学習講座の俳句教室を訪ねた。

「絵画や楽器演奏となるとそれなりに道具を揃えるなどの準備も必要ですが、俳句ならペンと紙さえればなんとかなるかもしれないと思いました。俳句をたしなんでいた父親の影響もあったのかもしれない」とKさん。

漠然とした中にも、心から打ち込めるものを見つけたい、なにか書くことで自己表現をしたいといった衝動に、それぞれ駆られていたのかもしれない。

このほど『カラー版 初めての俳句の作り方』(成美堂出版)が刊行された。私も執筆協力しておりますビジュアルな俳句入門書。オススメです。

http://www.seibidoshuppan.co.jp/new/index.html

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2005.01.14

20代の頃、職場でたまたま前の席におられた、銀髪のベテラン編集者が、長いこと短歌をたしなんでいる方だった。

古典に詳しいその編集者を私は「お父さん」と呼び、日頃から、仕事の最中にごく私的なメモのやりとりをしていた。

お父さんは、「老いらくの恋」といってはナンですが、毎日のように逢っている仲睦まじい彼女がいた。

「今日はデートですか?」と問い掛けたりして、私とお父さんは、世代を超えて、互いの恋について語らうようになっていた。そのうち、お父さんが自作の歌を彼女にプレゼントしていることも知った。

あるとき、茶目っ気を出した私は、「いかがでしょう?」と、メモ用紙に記した俳句を本棚越しに手渡した。ある意味でそれが、私の俳句づくりのはじまり、だったかもしれない。

しばらくすると、先ほどのメモが戻ってきた。「拝見しました」という言葉に続いて、丁寧に句の感想が記されていた。

こうしたやりとりが面白くて、毎朝、出勤途上で俳句をつくっては、会社に着くなりメモして、お父さんに渡すようになった。

その頃、つきあっていた彼にも、自分の俳句を見せて、無邪気に喜んでいた。短歌はお父さんにまかせて、私は俳句で、という気持ちもどこかにあったのか。

そのせいか、当時はやたらと短歌調の「恋の句」が多かった気がする。

それも、なんだかねぇ。


  きみだけにいへるわがまま花野菜  悦花

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2004.12.13

わたしの羽音 ②

鳥といえば。

私は子どもの頃、セキセイインコを飼っていた。はじまりは、突然 家に飛び込んできたグリーンのクックちゃん。クックちゃんのお婿さんにとブルーのインコをペットショップで購入した。

気の強い年上女房のクックちゃんに、最初はたじたじの様子だったが、そのうちクックちゃんが卵を産んだ。無事、雛が孵ると、私は、雛の餌やりに明け暮れた。我が家からたくさんの小鳥が巣立っていった。

さらに年月は流れ、十代後半の頃。

自宅の庭にあった鳥のエサ台には、スズメ、メジロ、ヒヨドリ、オナガ、ヤマバトなど、さまざまな野鳥がひっきりなしにやってきてはエサを啄んでいた。

ある日、庭石の上にじっと佇む鳥を見つけた。ヒヨドリほどの大きさだが、赤茶色の姿は明らかに違う。

野鳥図鑑で調べたところ、渡り鳥であることがわかった。途中から小雨が降ってきたが、その鳥は微動だにしない。私は、息をひそめて、珍しい来訪者を見守っていた。

自分がまだなにものかわからないまま、どこか鋭敏すぎる神経をもてあましながら、青空に飛翔する羽音にひたすら耳を傾けている私が、そこにはいた。

冬青空わたしの羽音ありにけり    吉田悦花

(『二十世紀名句手帖 8 「生活」編 旅と人生の嬉遊曲』齋藤愼爾編 所収句)

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2004.12.10

わたしの羽音 ①

なぜか鳥に心魅かれる。

最ものめりこんでいたのは、二十歳前ごろだったか。日本野鳥の会会員で、趣味はバードウォッチングだったりして。ほほほほほ(意味不明の笑い。照れ隠しともいう)。

そのころのもう1つの趣味は、イラストを描くことだった。まわりからうまいとおだてられ、頼まれて文化祭のポスターを描いた。そういえば、野鳥の会の会報誌に野鳥のスケッチも投稿したことがあった。

ある月刊誌の読者欄へイラスト(似顔絵)を投稿したのがきっかけで、編集長からお声を掛けていただき、イラストの発注を受けた。

さらに、単行本に挿絵も描くようになった。そのころには、すでに編集者として仕事をしていたので、あくまでアルバイト感覚である。

こうした過去を封印していたわけでもないけれど、私自身すっかり忘れていた。なんでもやってみようといったチャレンジ精神というか、お絵かきを仕事にしてしまった大胆不敵さというか、少しは見習いたいな、といまの私は思う。

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2004.12.07

着ぶくれて 補遺

流山 吟行メモ

流山駅から歩いて5分くらいのところに、いま話題の新選組・近藤勇の陣屋跡。

その先に閻魔堂。墓地には、流山出身の義賊で、放蕩のかぎりを尽くしたという金子市之丞と遊女三千歳の墓がある。

流山には、悠々自適の境地を楽しもうという俳人・山口草堂の一派である葛飾派の俳人がたくさん暮らしていた。

葛飾派には一茶も属していた。俳諧の正統からはずれ、季題趣味も薄かったが、庶民に人気があった。

秋元双樹こと秋元三左衛門もその1人。流山で酒・みりんの製造販売を営む、この地きっての豪商であった。一茶は、双樹のもとに50回以上寄寓して、流山でたくさんの句を詠んでいる。

秋元家の建物は、「一茶双樹記念館」として甦った。私は、隣接する一茶庵で句会をしたことがある。

記念館には、一茶の掛軸があった。「鳩いけんしていはく」という前書きで、

 梟よ面癖直せ春の雨

とある。いつも憂鬱に見える梟に「面癖直せ」と意見する鳩。童話的なユーモア漂う句だ。

メモ魔で、何でも記録していた一茶の『七番日記』も展示。52歳で結婚。しかし、生まれた子どもたちは次々夭逝。複雑な境遇を圧縮するかのように、執拗に書き付けている。

こんなところにも、芭蕉や蕪村の風雅とは異なる、一茶という俳人の人間性を垣間見ることができる。


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2004.12.06

着ぶくれて

流山は、千葉県北部に位置する。利根川水系を利用して、江戸への多様な水路が開けていた。水路に沿って江戸に供給されていた、醤油・みりんなどの食品産業が発達した。

一歩外へ出れば、醤油とみりんの蔵が建ち並び、その先には土手が広がっていた。対岸は埼玉。しかし、当時、2、3歳であった私は、くぐり戸を抜けて1人で外出することはなかったろう。

アルバムに、土手の上で写した写真がいくつかある。まだ春浅い河の水門を背景に、着ぶくれたマーちゃんと私。ふたりそろって「シェー」のポーズ。右腕を大きく頭の上で曲げ、左足だけで立って、実にうれしそうな私。

マーちゃんの身長の半分くらいしかない私は、着ぶくれてまんまるな体から伸ばした短い手足を思い切り湾曲させている。モノクロ写真だが、その頬は真っ赤に違いない。

「シェー」は、人気アニメ「おそ松くん」に出てくるお決まりのポーズからとったものだろう。といっても、私はこのとき、意味もわからず、ただひたすら年上のマーちゃんの真似をしていたのだった。

お調子者、はこの頃からかもしれないなぁ。

 着ぶくれて我が一生も見えにけり   五十嵐播水

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2004.12.02

着ぶくれて

小林一茶ゆかりの地である千葉県流山。流山(ながれやま)は、私の第二の故郷のようなもの。幼稚園に入園するまでの一時期をこの地で過ごした。幼年時代の思い出の地、といえるだろう。

総武流山電鉄というローカル線の終着駅。今もほとんど変わっていない、ちっちゃな駅舎。

目の前の国道を渡ってすぐ、当時としてはモダンであった(と思う)円形のショーウィンドゥにプラモデルなどが飾られてあった店舗の角を曲がるとすぐ我が家があった。お向かいは畳屋さんか、工務店だったと思う。

同じ敷地の中に、年上のいとこのマーちゃん、ハヂメくんの家もあった。というより、父母と弟(まだよだれかけをしている赤ん坊)と私の4人の家族は、当時、母の姉、つまり伯母夫婦(マーちゃん、ハヂメくんの親)の自宅のはなれを借りて暮らしていた。一戸建を建てる間の仮住まいだったようだ。

広い庭には、伯父がつくってくれた木のベンチにロープを繋いだブランコや砂場もあった。その私設遊園地で、いとこの姉弟と私と弟の4人は、いつも転げまわっていた。

手先が器用な伯父は、私たちに、その頃すでに珍しかった竹馬もつくってくれた記憶もある。私はついに満足に乗ることができなかった、と思う。

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2004.11.29

手袋を買いに

先日、朗読会で新美南吉の『手袋を買いに』を聴いた。子ギツネが、母ギツネのもとを離れ、たったひとりで、人間が暮らす町に行き、手袋を買うお話。

母ギツネから、人間の子どもに化けた前足を差し出すよう言いつけられていたが、子ギツネは、帽子屋の扉から、誤ってキツネのほうの足を出してしまう。しかし、店主は、子ギツネに合った手袋を与える。

喜びいさんで母が待つ山へ急ぐ子ギツネ。元気に戻ってきた子ギツネを抱いて、母ギツネはつぶやく。

「ほんとうに人間はいいものかしら、ほんとうに人間はいいものかしら……」

私が母さんだったら、両足とも人間の手にしてやるのだが。なぜ、片方だけ人間の手にして、危険な人間の町へ子ギツネを行かせたのか。こんなことを考える私は、作品世界に純粋にひたることのできない不幸な人間なのかもしれない。

しかし、母さんのつぶやきに、永遠なる問いかけを感じ、涙した私でありました。

さて、冬の季語に狐火(きつねび)ということばがある。狐火とは、狐がともすとされる燈火のこと。

小雨の降るような闇夜、山野の空中を青白い光が浮遊する、という。狐がくわえた馬の骨から発する燐光だともいわれている。

どこか迷信めいた気がする。しかし、リン化水素が燃焼するためだという説もあり、荒唐無稽というわけでもなさそう。

そもそも「狐火」自体、実態に乏しい。その句も、ともすると観念的なものになりがちだ。だからといって、「狐火」句にリアリティーがないということではない。それをどのようにして句として成り立たせるか、そこが問題であろう。

 狐火の減る火ばかりとなりにけり  松本たかし

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2004.11.24

鎌倉

久しぶりに訪ねた鎌倉。

壽福寺の墓地で、星野立子の墓と、その真向かいの洞の中に建つ立子の父・高濱虚子の墓に線香を手向ける。

虚子とのみ刻む墓石冬ぬくし    悦花

墓石に大きく「虚子」の二文字。おそらく虚子の血筋の人なのだろう、墓前で掌を合わせていた男性が、「省略が効いて、潔いでしょう」と微笑んだ。

海蔵寺に立ち寄り、あたたかな冬の日差しを受けながら坂道を越えると、蕎麦屋の角に出た。そこで昼食。

次に、北条時頼が建立した我が国最初の禅寺である建長寺へ。仏殿の前には、柏槙の古木が大きく枝を広げている。創建当時に植えられたというから、樹齢750年になる。

小町通りの近くで夕食をとり、外に出た。通りは、小雨に濡れていた。

先生が逝去されて、早いもので10年近くになる。書籍の山と猫が陣取っていた屋敷も姿を消した。

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2004.11.22

鎌倉

鎌倉はいつ訪れても、新しい発見がある。

学生時代、恩師が暮らす鎌倉を教え子5、6人で定期的に訪ねていたことがあった。

それ以前にも、先生を囲む集まりを都内で持っていたが、社会人になって2、3年になり、それぞれ仕事にも馴れ、それなりに落ち着いて来た頃を見はからったように、誰が言い出したか覚えていないが、先生と鎌倉を散策しようということになった。

健脚の先生のご案内で、いろいろなところに連れていっていただいた。土地の方しか知らないような抜け道を日が暮れるまでひたすら歩いた。

当時、出版社に勤務していた私は、仕事になれてラクになるどころか、心身ともにますますハードな毎日を送っていた。

たまの休日は、寝だめと称して、ひたすら睡眠に費やされた。そんな私にとって、鎌倉散策は自然とふれあう貴重な時間だった。

もともと歩くことは大好きなので、いくら歩いても苦にはならない。人気のないお稲荷さんの一角で、押鮨をいただいたことも愉しい想い出。

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2004.11.19

大荒行

日蓮大聖人像を安置する祖師堂。昭和から平成にかけての大修理によって、創建当時の比翼入母屋造りの屋根が甦った。境内には、絵馬堂、刹堂、鬼子母神堂、法華堂などの伽藍が点在する。

 線香の灰よりけむり返り花    悦花

 秋のこゑ青年僧の祈禱かな    悦花

日蓮宗大荒行堂では、700年にわたって中山の荒行が伝えられている。毎年11月1日から翌年2月10日まで。修行僧は、厳しい戒律を守り、水行や断食など、厳しい荒行を行う。

 銀杏の実や修行僧面会所     悦花

 荒行堂の扉閉ざされ野分晴    悦花

「立正安国論」など、日蓮の御真筆(国宝)が納められている聖教殿は、山上にある。独特の様式美を誇る建造物は一見の価値あり。毎年11月3日には「御風入れ」の儀が行なわれる。

聖教殿への道は、昔は草茫々で、叢から蛇が顔を出してびっくり、なんてこともあったように記憶している。しかし、現在は、見違えるほどきれいに舗装されている。

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2004.11.16

大荒行

千葉県・下総中山。ここは、高祖日蓮聖人が最初に開かれた大本山中山法華経寺のおひざもと。

天下泰平、五穀豊穣、万民快楽、子育守護の祈願成就の「中山の鬼子母神さま」。その門前町として、熱心な参詣者で賑わった。

江戸時代の絵巻地誌「江戸名所図会」の挿絵にも、その様子が描かれている。

今は亡き私の祖母は、毎月1日に詣でていた。

雨など天候の悪い日は、「明日にしたら」母が心配していたが、信心深い祖母は、90歳近くまで休まず参詣していたようだ。

駅からまっすぐ参道を登り、国道を越え、通称・黒門を抜け、本阿弥光悦筆の「正中山」の額が掲げられた仁王門をくぐると、境内に入る。

 寒雀の糞またぎ入る仁王門    悦花

ここは、小学生だった私の、お気に入りの散歩道の1つ。

鳩にエサを与えたり、雨乞いに霊験ありと伝えられる大きな龍(八大龍王)が棲んでいるという龍王池の水面を飽かずに眺めていたりしたことも。

写生会でスケッチブックに描いたのは、正面にそびえる五重塔(国の重要文化財)だった。

 鳩豆と並び売られし衣被     悦花

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2004.11.15

ゴツーン

「何か見えたような気になって、ワクワクしていると、ある日突然、ゴツーンと来るのが世の中。ゴツーンと来るのを覚悟の空回りで、いつも何かにこだわっていきたい」

20歳の頃、ゼミの共同研究か何かの編集後記の終わりに記した言葉だと思う。

そうか、そうであったかと、1人ナットク。

今も同じようなこと、いっているものね。

日日の失敗に学びつつ、好奇心は失わずにいたいと切に思う。

私にささやかな詩心を呼び覚ましてくれる俳句は、そのための1つの手段として、神さまが与えてくださったものかもしれない。なんて。

寒ざくら指輪わたされそれつきり   悦花

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