手袋を買いに
先日、朗読会で新美南吉の『手袋を買いに』を聴いた。子ギツネが、母ギツネのもとを離れ、たったひとりで、人間が暮らす町に行き、手袋を買うお話。
母ギツネから、人間の子どもに化けた前足を差し出すよう言いつけられていたが、子ギツネは、帽子屋の扉から、誤ってキツネのほうの足を出してしまう。しかし、店主は、子ギツネに合った手袋を与える。
喜びいさんで母が待つ山へ急ぐ子ギツネ。元気に戻ってきた子ギツネを抱いて、母ギツネはつぶやく。
「ほんとうに人間はいいものかしら、ほんとうに人間はいいものかしら……」
私が母さんだったら、両足とも人間の手にしてやるのだが。なぜ、片方だけ人間の手にして、危険な人間の町へ子ギツネを行かせたのか。こんなことを考える私は、作品世界に純粋にひたることのできない不幸な人間なのかもしれない。
しかし、母さんのつぶやきに、永遠なる問いかけを感じ、涙した私でありました。
さて、冬の季語に狐火(きつねび)ということばがある。狐火とは、狐がともすとされる燈火のこと。
小雨の降るような闇夜、山野の空中を青白い光が浮遊する、という。狐がくわえた馬の骨から発する燐光だともいわれている。
どこか迷信めいた気がする。しかし、リン化水素が燃焼するためだという説もあり、荒唐無稽というわけでもなさそう。
そもそも「狐火」自体、実態に乏しい。その句も、ともすると観念的なものになりがちだ。だからといって、「狐火」句にリアリティーがないということではない。それをどのようにして句として成り立たせるか、そこが問題であろう。
狐火の減る火ばかりとなりにけり 松本たかし





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