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November 2004

手袋を買いに

先日、朗読会で新美南吉の『手袋を買いに』を聴いた。子ギツネが、母ギツネのもとを離れ、たったひとりで、人間が暮らす町に行き、手袋を買うお話。

母ギツネから、人間の子どもに化けた前足を差し出すよう言いつけられていたが、子ギツネは、帽子屋の扉から、誤ってキツネのほうの足を出してしまう。しかし、店主は、子ギツネに合った手袋を与える。

喜びいさんで母が待つ山へ急ぐ子ギツネ。元気に戻ってきた子ギツネを抱いて、母ギツネはつぶやく。

「ほんとうに人間はいいものかしら、ほんとうに人間はいいものかしら……」

私が母さんだったら、両足とも人間の手にしてやるのだが。なぜ、片方だけ人間の手にして、危険な人間の町へ子ギツネを行かせたのか。こんなことを考える私は、作品世界に純粋にひたることのできない不幸な人間なのかもしれない。

しかし、母さんのつぶやきに、永遠なる問いかけを感じ、涙した私でありました。

さて、冬の季語に狐火(きつねび)ということばがある。狐火とは、狐がともすとされる燈火のこと。

小雨の降るような闇夜、山野の空中を青白い光が浮遊する、という。狐がくわえた馬の骨から発する燐光だともいわれている。

どこか迷信めいた気がする。しかし、リン化水素が燃焼するためだという説もあり、荒唐無稽というわけでもなさそう。

そもそも「狐火」自体、実態に乏しい。その句も、ともすると観念的なものになりがちだ。だからといって、「狐火」句にリアリティーがないということではない。それをどのようにして句として成り立たせるか、そこが問題であろう。

 狐火の減る火ばかりとなりにけり  松本たかし

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鎌倉

久しぶりに訪ねた鎌倉。

壽福寺の墓地で、星野立子の墓と、その真向かいの洞の中に建つ立子の父・高濱虚子の墓に線香を手向ける。

虚子とのみ刻む墓石冬ぬくし    悦花

墓石に大きく「虚子」の二文字。おそらく虚子の血筋の人なのだろう、墓前で掌を合わせていた男性が、「省略が効いて、潔いでしょう」と微笑んだ。

海蔵寺に立ち寄り、あたたかな冬の日差しを受けながら坂道を越えると、蕎麦屋の角に出た。そこで昼食。

次に、北条時頼が建立した我が国最初の禅寺である建長寺へ。仏殿の前には、柏槙の古木が大きく枝を広げている。創建当時に植えられたというから、樹齢750年になる。

小町通りの近くで夕食をとり、外に出た。通りは、小雨に濡れていた。

先生が逝去されて、早いもので10年近くになる。書籍の山と猫が陣取っていた屋敷も姿を消した。

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鎌倉

鎌倉はいつ訪れても、新しい発見がある。

学生時代、恩師が暮らす鎌倉を教え子5、6人で定期的に訪ねていたことがあった。

それ以前にも、先生を囲む集まりを都内で持っていたが、社会人になって2、3年になり、それぞれ仕事にも馴れ、それなりに落ち着いて来た頃を見はからったように、誰が言い出したか覚えていないが、先生と鎌倉を散策しようということになった。

健脚の先生のご案内で、いろいろなところに連れていっていただいた。土地の方しか知らないような抜け道を日が暮れるまでひたすら歩いた。

当時、出版社に勤務していた私は、仕事になれてラクになるどころか、心身ともにますますハードな毎日を送っていた。

たまの休日は、寝だめと称して、ひたすら睡眠に費やされた。そんな私にとって、鎌倉散策は自然とふれあう貴重な時間だった。

もともと歩くことは大好きなので、いくら歩いても苦にはならない。人気のないお稲荷さんの一角で、押鮨をいただいたことも愉しい想い出。

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大荒行

日蓮大聖人像を安置する祖師堂。昭和から平成にかけての大修理によって、創建当時の比翼入母屋造りの屋根が甦った。境内には、絵馬堂、刹堂、鬼子母神堂、法華堂などの伽藍が点在する。

 線香の灰よりけむり返り花    悦花

 秋のこゑ青年僧の祈禱かな    悦花

日蓮宗大荒行堂では、700年にわたって中山の荒行が伝えられている。毎年11月1日から翌年2月10日まで。修行僧は、厳しい戒律を守り、水行や断食など、厳しい荒行を行う。

 銀杏の実や修行僧面会所     悦花

 荒行堂の扉閉ざされ野分晴    悦花

「立正安国論」など、日蓮の御真筆(国宝)が納められている聖教殿は、山上にある。独特の様式美を誇る建造物は一見の価値あり。毎年11月3日には「御風入れ」の儀が行なわれる。

聖教殿への道は、昔は草茫々で、叢から蛇が顔を出してびっくり、なんてこともあったように記憶している。しかし、現在は、見違えるほどきれいに舗装されている。

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大荒行

千葉県・下総中山。ここは、高祖日蓮聖人が最初に開かれた大本山中山法華経寺のおひざもと。

天下泰平、五穀豊穣、万民快楽、子育守護の祈願成就の「中山の鬼子母神さま」。その門前町として、熱心な参詣者で賑わった。

江戸時代の絵巻地誌「江戸名所図会」の挿絵にも、その様子が描かれている。

今は亡き私の祖母は、毎月1日に詣でていた。

雨など天候の悪い日は、「明日にしたら」母が心配していたが、信心深い祖母は、90歳近くまで休まず参詣していたようだ。

駅からまっすぐ参道を登り、国道を越え、通称・黒門を抜け、本阿弥光悦筆の「正中山」の額が掲げられた仁王門をくぐると、境内に入る。

 寒雀の糞またぎ入る仁王門    悦花

ここは、小学生だった私の、お気に入りの散歩道の1つ。

鳩にエサを与えたり、雨乞いに霊験ありと伝えられる大きな龍(八大龍王)が棲んでいるという龍王池の水面を飽かずに眺めていたりしたことも。

写生会でスケッチブックに描いたのは、正面にそびえる五重塔(国の重要文化財)だった。

 鳩豆と並び売られし衣被     悦花

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ゴツーン

「何か見えたような気になって、ワクワクしていると、ある日突然、ゴツーンと来るのが世の中。ゴツーンと来るのを覚悟の空回りで、いつも何かにこだわっていきたい」

20歳の頃、ゼミの共同研究か何かの編集後記の終わりに記した言葉だと思う。

そうか、そうであったかと、1人ナットク。

今も同じようなこと、いっているものね。

日日の失敗に学びつつ、好奇心は失わずにいたいと切に思う。

私にささやかな詩心を呼び覚ましてくれる俳句は、そのための1つの手段として、神さまが与えてくださったものかもしれない。なんて。

寒ざくら指輪わたされそれつきり   悦花

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絶滅のかの狼を連れ歩く

俳人・三橋敏雄氏が逝去されてから、三橋氏が健在であったならば、現在の世をどのように詠まれるだろうかと思うことがある。

2002年1月18日。東京・霞ヶ関の日本プレスセンターの「アラスカ」で、前年末亡くなられた三橋氏を偲ぶ会が行われた。

高橋龍氏の開会の辞に続いて、発起人の一人である鈴木六林男氏の挨拶、元「断崖」編集長の木村澄夫氏の献杯。三橋氏の遺影に、集まった俳人一人ひとりによる献花が行われた。

三橋氏は、大正9年東京生まれ。昭和10年14歳で俳句をはじめ、渡辺保夫、渡辺白泉、西東三鬼に師事。昭和13年新興俳句無季派の新人として「戦争」と題する無季57句を発表して山口誓子に激賞される。

弾圧を受けて消えてしまった新興俳句運動の貴重な発言者として、戦後も一貫して「戦争」にこだわり続けた。

昭和41年句集『まぼろしの鱶』で現代俳句協会賞、『畳の上』で蛇笏賞をそれぞれ受賞。

  少年ありピカソの青のなかに病む

  いつせいに柱が燃える都かな

  絶滅のかの狼を連れ歩く

  手をあげて此の世の友は来りけり

  戦争と畳の上の団扇かな

なかでも「いつせいに」の句は、新興俳句の白眉とされ、三橋氏の代表句である。

三橋氏に初めてお目にかかったのは、たしか、新宿西口の居酒屋「ぼるが」店主で俳人の高島茂氏を偲ぶ会(京王プラザホテル)だった。

その後も、毎日新聞社の「俳句α あるふぁ」創刊十周年の集い(如水会館)でも乾杯の挨拶をされるなど、元気な姿を拝見していただけに、急逝が惜しまれる。

会場には、生前の三橋氏の幅広い交友を思わせるように、茨城和生、磯貝碧蹄館、宇多喜代子、大串章、桂信子、金子兜太、加藤郁乎、倉橋羊村、小島健、津根元潮、中原道夫、橋本美代子、藤田湘子、深見けん二、坊城俊樹、松澤昭、松井和一、和田悟朗、小澤實氏などの俳人のほかにも、詩人の宗左近、高橋睦郎、作家の村上譲、川上弘美氏などの姿もあった。

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頭の中で白い夏野となつてゐる ⑤

ちるさくら海あをければ海へちる

眼前の風景をたしかに捉えながら、すべてが青い海に吸い込まれていくような、永遠性や時間の連鎖など、時空を超越した心象風景の「虚実の皮膜」を創出している。

 石の家にぼろんごつんと冬がきて

 鳥とほくなりゐる秋のわかれかな
 
 血をたれて鳥の骨ゆくなかぞらに
 
 地球ごと風がまはるよ蝶飛来
 
 一瞬の海のかなしみ流れ星
 
 詩の泉さらさら流る爆心地
 
 きりぎりすきのふのそらのきのこ雲
 
 白い夏野の黒い焼野のきりぎりす

こうした句からも、窓秋が、叙情的な抽象世界だけを追及した俳人ではないことが読みとれる。

時代を見つめる深い思惟、虚無感、死生観を凝縮した鋼のような詩情がひたひたと伝わってくる。

「白い夏野」は、窓秋の原風景であり、戦争を目前にした若き日の絶望の表現、だったのではないか、と。

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頭の中で白い夏野となつてゐる ④

長い休止期間を経て句作を再開したものの、平成11年に88歳で亡くなるまで、窓秋の作句活動は断続的であり、決して精力的とはいえない。

はっきりいって寡作である。

いわゆる俳壇からも最後まで距離を置き、「自分から句集を出そうなどという気持ちなど、さらさら無い」こともあり、その作品世界が知られる機会は、極めて限られていた。

私のように、この『高屋窓秋俳句集成』によって、その全貌を初めて知ったという人も少なくないのではないか。

窓秋は、代表句「頭の中で」のイメージからか、甘美で抽象的な叙情俳人といわれる。

しかし、本書に収められた4つの句集と補遺を読んだあとでは、冒頭に掲げた「頭の中で」の印象がまるで異なるものに思えてきた。

もう一度。
 
頭の中で白い夏野となつてゐる

酷いほどの夏の日差し。

遠くで子どもたちの声がする。

蝉しぐれ。

現実には、青い夏野が広がっている。

しかし、私の脳裏は、「白い夏野となつてゐる」。

まばゆいばかりの、焼け付くような明るさ。

そして匂い。

それらを覆い尽くすまでの寂寥感。

不安感、孤独、渇きを凝視する、いたましいまでに鋭い視線。

戦中・戦後の喪失感や虚脱感を予見したかのような作品だ。

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頭の中で白い夏野となつてゐる ③

26歳の第一句集『白い夏野』はすでに、彼の代表句といわれる作品を収めている。

 南風や屋上に出て海は見ゆる

 ちるさくら海あをければ海へちる

 やはらかき小径とおもふ月あかり

 山鳩よみればまはりに雪がふる

窓秋は、水原秋櫻子の『葛飾』を愛し、秋櫻子門下として『馬酔木』に句を発表して、熱心に句作に勤しんだ。

しかし、俳句観の相違から、馬酔木同人を辞し、しばらく句作から離れ、一年後、『白い夏野』をまとめた。

句集が刊行された昭和11年、2・26事件が起こる。

さらに、12年に日中戦争、13年に国家総動員法公布、14年に第二次世界大戦、15年に三国同盟締結、16年に太平洋戦争が始まる。

法政大学卒業後、満州の電話電信会社に職を得た窓秋は、15年に東京に戻った折、京大俳句事件に関連して憲兵の訪問を受けている。

敗戦は満州で迎えた。

ソ連軍憲兵の追及を受けて市中に潜伏。国府軍と八路軍の攻防戦をくぐり抜けたものの、新京(現・長春)にて、幼い長女が病死。

昭和21年、佐世保に上陸、東京へ戻る。

その後、26年から45年まで作品活動を休止。

41歳から20年近くもの間、一句も発表しなかった。

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